2011年6月23日木曜日

中村勝雄 著 『もう一度抱きしめたい』日本テレビ系 ドラマ企画を現実に





ダウン星はな、とにかくいい星なんだ。でもな、たったひとつだけ仕事があるんだ。千人にひとりだけ地球に行かなきゃならないんだ。地球の人間のお腹から生まれるんだ。生まれたら地球の人間のためにニコニコ笑ってあげなきゃ」『もう一度、抱きしめたい』{脳性まひの僕に舞い降りたダウン星の王子さま}中村勝雄 著 日本テレビ系でドラマ化企画進行中です。このイベントで、ドラマ化を応援していきたいと願います。
『中村勝雄』『もう一度、抱きしめたい』『ダウン星の王子さま』をネット上で広める活動に、ご協力お願います。
ツイッターでは、是非 #katuo ←このタグをお使い下さい。

中村勝雄(かっちゃん)を、様々な所で、様々な形で語り、活字に、又、画像で、広めて下さい。
皆様のお力をおかしください、お願いします。

ツイッター「中村勝雄ふぁん倶楽部」イベントHP

2011年6月1日水曜日

中村勝雄 著 『もう一度抱きしめたい』出版記念 横須賀サイン会のお知らせ

かっちゃんの本

『もう一度、抱きしめたい』出版記念サイン会

日時 6月5日(日) 午後2時〜
場所 神奈川県 横須賀市 ダイエーショッパーズプラザ3階 「くまざわ書店」

                                  


【東京新聞の本】

もう一度、抱きしめたい

  脳性まひの僕に舞い降りたダウン星の王子さま

もう一度、抱きしめたい
中村勝雄 著
1,300円 (本体価格1,238円)
ISBN 9784808309435
四六判 並製 232P
ご注文はこちらから [在庫:有り]
「ダウン星はな とにかくいい星なんだ
……でもな たったひとつだけ仕事があるんだ 
千人にひとりだけ地球に行かなきゃならないんだ 
地球の人間のお腹から生まれるんだ 
生まれたら地球の人間のためにだまってニコニコ笑ってあげなきゃならないんだ」
 
生まれたときから脳性まひで、車イス生活をよぎなくされ、一人では食事もできない。そんな著者が結婚し、生まれた子どもはダウン症と診断された――。
「わが子がダウン症児として誕生したとき、ぼくは歩いたこともないのに、膝から崩れ落ちていくように自分の感情が壊れていくのを止められなかった。発狂してしまいそうだった。障害者を取り巻く環境など、それを知り過ぎている自らの記憶が忌まわしかった」
 それでもわが子への愛情は日に日に大きくなり、不自由な体で、NICU(新生児治療室)に入院する愛児のもとに通い続けた。
「ケンジはな ダウン星の王子なんだ……でも王様に何かあったらダ
ウン星に帰らなきゃいけないんだ」
 共に障害者という父と子の、432日――短くも濃密な1年2ヶ月を綴った感動の記録。
  
【著者紹介】
中村 勝雄(なかむら・かつお)
1960年、長崎県生まれ。81年、平塚養護学校高等部卒業。同年、木下恵介監督に師事。84年、ATG映画脚本賞・佳作受賞。01年、第8回小学館ノンフィクション大賞優秀賞。受賞作『パラダイス ウォーカー』は出版され、障害者を知るための10冊に選出されている。03年、東京(中日)新聞にエッセイが連載され好評を博し、東京都『総合の時間』副教材としても採用される。現在、作家として異色のバリアフリー論を新聞・雑誌などに発表している。ユニークな講演も評判。ほか著書に『涼子Hello my love』(プラルト出版)がある。車イスの重度脳性マヒ、障害者手帳1種1級。妻と二男の四人暮し。


※因に、当日のサイン会には、ブログ管理人もお手伝いに行っております。


2011年5月24日火曜日

中村勝雄 からの手紙

 『もう一度抱きしめたい』

この度
待ち望んでいた
 かっちゃんの新刊が発売される事になり
無理と、ハッキリしない趣旨で、この本について
文章を書いてくれと頼み込みました(^_^;A
そして、すぐに手紙を頂きました。
今日は、その手紙を、そのままコピーして発表させていただきます。








題名『もう一度、抱きしめたい』
出版社『東京新聞』
内容『ダウン症のため1歳2ヶ月で亡くなった長男の物語』
発売日、5月25日 定価1300円


本になるまでのこと
6年前に亡くなった長男は、病院から出ることはなく、いつか本にして皆さんに知ってもらいたいと思っていました。
昨年7月、東京新聞・出版部長に原稿を渡しました。この方は、04年の夕刊に33回の連載の際、担当編集者でした。その後も年賀メール程度のやり取りを続けていたので、数年前から出版部長になったことは知っていました。
今回の作品は当初、小学館の編集者と進めていましたが、二年前お母様の介護のために退職されました。そして昨年の春、推敲(すいこう)に推敲を重ねた原稿は完成しました。
大手出版社を当たりましたが玉砕し、ダメ元で東京新聞・出版部に行きました。
ところがリーマンショック以降、出版のハードルが高くなったとのことで、あきらめかけていました。自分の中で、昨年に結果を出せず、力不足を痛感していました。それでも原稿完成後、すぐにドラマ用のシナリオを書き始めていました。
このシナリオも正月には完成し、94年から二年間契約社員をしていた日本テレビの知り合いに連絡、この方にも毎年、近況報告をしていました。またもダメ元で当たったところ、なんと編成局長さんになっていました。びっくりしました。
2月4日、10分だけなら会えるとのことで原稿とシナリオを持って行きました。すると三日後に部下だという企画部長から「修正しながらドラマ化を考えたい」と連絡がありました。なんと企画部長さんは横須賀出身でした。人とのつながりが大切だと痛感しています。

よろしくお願いします。

中村勝雄





2011年5月20日金曜日

『120センチの視線から』中村勝雄


第1回 「思えば遠くへ来たもんだ」 

二十歳のとき、「作家になろう」と思った。
正確には、シナリオライターになろうと。1980年代の、いわゆる「トレンディードラマ」のはしりの頃、ドラマの中で繰り広げられるストーリーは洗練されていて、ぜったいに自分には起こり得ないモノだった。だから強烈に、あこがれた。

それでも現実を分かっていなかったわけではない。重度の障害を持つぼくの将来は、障害の重さからして、少しの間は親達に介護されて生き永らえ、いずれ親も一人になり、自分も山奥の施設で早い余生を送る。そんなシナリオを養護学校の時は描いていた。描いていたというよりは、そうでしかない、とただ漠然と考えていたという方が正しいかもしれない。だから初めは、「作家」という職業に憧れながら、そんなすごい人間に自分はなれるはずがない、そう思っていた。

しかしその日から、23年が経ってしまった現在、押しも押されぬ、ではなく「押されたら倒れそう」な、いや車イスだから押してもらう「作家」にはなってしまった。だからまさに、人生は計算ができない代物だ。
かなタイプライターで書いた原稿から始まって、25歳のころからはワープロになり、現在はワープロが生産中止になったため、ぜったいに使わないつもりでいたパソコンなる「怪物」と日々むきあっている。編集者から、「中村さん、パソコンになったのなら原稿「てんぷ」にしてください。」と言われて、ぼくは本気で天ぷらのようにカラッとした、おいしい原稿を書け、そう遠回しに指摘されているのかと思っていた。(これはウソではない。)
 振り返って見ればぼくの人生、気が付いたらそうなっていた。思えば遠くへ来たもんだ、と実感する。ただ、がむしゃらにやってきた。いままで応募した原稿がどんなに落選続きでも、心の真ん中だけは落ち込ませないようにした。ほんの0.007%ぐらいは、もしかしたら「ひょうたんからこま」という可能性もあるかも知れない。そんな可能性にかけたのも、いま思えば本当に世間知らずの障害者だった気がする。
しかしきびしい現実も、ずっと永遠に続くはずがない。うまくいかないことの向こうには必ず、朝日のような成功が待っている。そう信じていた。これからの未来も、どんな勝利を手にするかは、すべて自分がどうなりたいのか、それを望む力強さがあればいい。


2011年5月19日木曜日

『120センチの視線から』中村勝雄

ある人々との出会い②  いつの日か、彼の歌が  … 【長井 賢】

その朝の事は一生忘れない。心の中の部品が一つなくなってしまったような、それまでに経験のない悲しみだった。親友を不慮の事故で無くした時の衝撃は、とても大きかった。
今から三年前の初夏。彼は同乗していた車の交通事故で逝った。享年29の若さだった。とにかく信じられなかった。
彼、長井 賢(さとし)と出会ったのは十年近く前の事だ。どう知り合ったのか説明すると複雑になるが、うちと長井のおばあちゃんとは長く近所付き合いをしていた。
 大学を卒業したばかりの長井は、ミュージシャンを目指して奮闘していた。
ぼくも作家になろうとしている事を知り、いつの間にか年の差を越えて真夜中まで話すようになった。
「かっちゃんの文章って、なんか心に入ってくるし読みやすいよね」
「でも、音楽の方がすごいって。この世界中の人々に聴いてもらえるじゃん。おれの書いたモノなんか、万が一出版されたって、たかがこの国の1億人しか読めないんだぜ」
「そうか」
「それに比べて長井がやってる音楽は、世界の誰でも感動される可能性はおおいにあるだろう。ジェラシー感じるよ」
 缶ビールを飲みながら、お互いの夢への情熱を語り合った。
何度か、長井のライブも聴きに行った。そして新曲ができると、ギターを手にして長井はぼくに披露してくれた。
「かっちゃん。おれの曲を聴いた人が、だれか一人でもいいから元気になってくれたら、おれは嬉しいんだ」
彼の訃報を聴いた瞬間、何度も言っていたその言葉が聞こえて来た。
昨年、長井が残したテープを元に、ご両親がCDアルバムを作られた。そこには、在りし日の長井の歌声がある。ぼくは元気がなくなると、そのCDを聴く。

どの曲も、長井らしいポップな歌声がつまっている。多くの人々に聴いてもらえない事が残念でならない。
だけど、ぼくは信じてる。
いつの日か、だれかの手でこの素敵な曲たちが、世界中の多くの人々に聴かれるようになり、みんなが元気になっていく日が来る事を。
2003/12/6 東京新聞より

2011年5月18日水曜日

中村勝雄■■■ 第8回『小学館ノンフィクション大賞』 ■■■ 審査委員の選評より

■■■ 第8回『小学館ノンフィクション大賞』 ■■■ 
審査委員の選評より

■猪瀬直樹(作家)
「パラダイスウォーカー」は、重度脳性マヒをわずらう中村氏のハワイ旅行と、
初恋に破れた話など半生が描かれている。
読後感が爽やかだった。
■野田正彰(評論家)
パラダイスウォーカーの可能性に期待
選考を重ねるにつれ、国際政治から細かい日常生活の襞まで、スポーツや冒険から神秘体験に到るまで、
多彩なテーマに挑戦する候補作品が並ぶようになった。
今年度も「小学館ノンフィクション大賞」の候補作らしい、多彩な五作品を受け取った。

五作品の内、私が比較的高く評価したのは、
中村勝雄さんの『パラダイスウォーカー』である。この本は、近年の障害をテーマとした本の流れのひとつとみなされてしまうかもしれないが、重度の脳性マヒをもった著者の外出中の排泄との闘い、非協力的な駅員への攻撃心などが書き込まれ、単に積極的な生き方だけを強調した著作ではない。さらに深く怒りや悲しみの過程を分析し、車イスでの旅人の内面を描ききっていれば、と残念に思う。書き直しを期待して、私は優秀作に推した。
■櫻井よしこ(ジャーナリスト)
中村氏の「パラダイスウォーカー」は、重度の脳性マヒを患う作者が自らの日常を綴ったもので、前向きで明るい物語に仕上がっている。だが逆に言えば、生々しさがあまり伝わってこない。望むほうが酷なのかもしれないが、もっと自らの内面をさらけ出す事が出来れば、伝わるものは違ったであろう。
■深沢祐介(作家)
「パラダイスウォーカー」は明るく、やはり障害者ならではの現実感があり、排泄にまつわる苦労など真に迫る。たぶん『五体不満足』の二番煎じと評されることもあろう。が、彼が正面から問題に立ち向かえば、新しい境地が開けるであろう。
■新聞の書評から
重度の障害のための食事も着替えも自由にならない著者が挑戦した、海外への一人旅。
「人生には前進する力だけがある」(サン=テグジュペリ)との気概に燃えるパラダイスウォーカー(楽園を往く者)の素晴らしき出会いが綴られている。
(小学館、1500円+税)
                         週刊ポスト(2001.8)より抜粋

2011年5月16日月曜日

木下恵介さんが中村勝雄の事を書いた特別寄稿

特別寄稿 随筆「N君頑張れ」
映画監督 木下 恵介
 N君から最初の手紙をもらったのは四年前、1981年の3月でした。開いてみて不思議な手紙だなと思いました。仮名タイプの手紙を見るのは初めてだったからです。便箋に4枚、仮名文字がぎっしりです。そして読みはじめて二度びっくりです。
「僕は俳優をこころざすはたちの脳性麻痺のものです」という言葉からはじまっているからです。脳性麻痺の青年が俳優になりたい。そんな奇想天外なことを思いつく人がいるでしょうか。封筒の中には車椅子に掛けた写真も入っていました。
N君は長崎の生まれで、生後10ケ月頃、両親がが普通の赤ン紡とは違うことに気づ゜き、「いろんな病院につれていったようです。病名がなかなかわからず、随分親たちに金銭的苦労をさせてしまったようです」と書いています。重度の脳性麻痺だったのです。それから後、名古屋、横須賀と両親は職場を変えなければならなかった.訓練施設や学校のためです。
20歳になり、私に手紙をくれたのは神奈川県の平塚養護学校寄宿舎からで、年齢約に半月には寄宿舎を出なければならない時でした。彼はこの養護学校に入る前の1年間、厚木市の山奥にある県立リハビリティションセンター更生ホームにいました。そしてこう書いています。
「それまでの僕は、自分ほ哀れんだり、呪ったりしていました。そんな僕がセンターで得たことは数限りありません。でもそれをほんの短い単語で表現するとしたら『自分だけが障害者じゃあない』という言葉しかありません」
彼は苦しみ自分と戦い、ひたむきに前進しようと生きてきたようです。意志も強いが頭も冴えているようです。その彼が俳優を志望するという突っ拍子もない希望を持ったことについて、次のように言っでいます。
「俳優になると決意したのは一年半ほど前のことでした。(中略〕自分のような役者がいてもよいのではないだろうか。障害者の役は障害のあるものが演じたほうが、よりいいものになるのではないか」
彼はある日、タレント募集の広告にひかれ、横須賀から五反田まで出掛けたそうです。そして断念しました。
その後だったと思います。突然、東京・麻布の私の家まで訪ねて来ました。勿論車椅子で。平塚の時の女の先生がつきそっていました.そして彼は、シナリオ作家になりたい、と言ったのです。それ以来彼が送ってきたシナリオは5、6篇あります。なかなかしっかりした書き方で感心しまレた。
しかし私は彼に言ったのです。「一番困難な道を選んだね」と。
去年の暮れ、彼はワープロを買いこんで頑張っています。そして最近送ってきたシナリオは、「戦争に結わりはない」という反戦ものです。脳性麻痺の彼が、平和のために叫ぼうとしている。そのことは貴重です。
日本の国民は、「ありがとう」と彼に感謝しなけれぼならないはずです。そして彼が、何故俳優を志望し、それが駄目ならシナリオライターを日指したか。何通目かの手紙で、彼はこう言っています。
「僕は、税金を納める人聞になりたいんだ」と。自己保全と欲得第一の日本の政治屋に聞かせてやりたい一言です。         
1985年