2011年5月16日月曜日

木下恵介さんが中村勝雄の事を書いた特別寄稿

特別寄稿 随筆「N君頑張れ」
映画監督 木下 恵介
 N君から最初の手紙をもらったのは四年前、1981年の3月でした。開いてみて不思議な手紙だなと思いました。仮名タイプの手紙を見るのは初めてだったからです。便箋に4枚、仮名文字がぎっしりです。そして読みはじめて二度びっくりです。
「僕は俳優をこころざすはたちの脳性麻痺のものです」という言葉からはじまっているからです。脳性麻痺の青年が俳優になりたい。そんな奇想天外なことを思いつく人がいるでしょうか。封筒の中には車椅子に掛けた写真も入っていました。
N君は長崎の生まれで、生後10ケ月頃、両親がが普通の赤ン紡とは違うことに気づ゜き、「いろんな病院につれていったようです。病名がなかなかわからず、随分親たちに金銭的苦労をさせてしまったようです」と書いています。重度の脳性麻痺だったのです。それから後、名古屋、横須賀と両親は職場を変えなければならなかった.訓練施設や学校のためです。
20歳になり、私に手紙をくれたのは神奈川県の平塚養護学校寄宿舎からで、年齢約に半月には寄宿舎を出なければならない時でした。彼はこの養護学校に入る前の1年間、厚木市の山奥にある県立リハビリティションセンター更生ホームにいました。そしてこう書いています。
「それまでの僕は、自分ほ哀れんだり、呪ったりしていました。そんな僕がセンターで得たことは数限りありません。でもそれをほんの短い単語で表現するとしたら『自分だけが障害者じゃあない』という言葉しかありません」
彼は苦しみ自分と戦い、ひたむきに前進しようと生きてきたようです。意志も強いが頭も冴えているようです。その彼が俳優を志望するという突っ拍子もない希望を持ったことについて、次のように言っでいます。
「俳優になると決意したのは一年半ほど前のことでした。(中略〕自分のような役者がいてもよいのではないだろうか。障害者の役は障害のあるものが演じたほうが、よりいいものになるのではないか」
彼はある日、タレント募集の広告にひかれ、横須賀から五反田まで出掛けたそうです。そして断念しました。
その後だったと思います。突然、東京・麻布の私の家まで訪ねて来ました。勿論車椅子で。平塚の時の女の先生がつきそっていました.そして彼は、シナリオ作家になりたい、と言ったのです。それ以来彼が送ってきたシナリオは5、6篇あります。なかなかしっかりした書き方で感心しまレた。
しかし私は彼に言ったのです。「一番困難な道を選んだね」と。
去年の暮れ、彼はワープロを買いこんで頑張っています。そして最近送ってきたシナリオは、「戦争に結わりはない」という反戦ものです。脳性麻痺の彼が、平和のために叫ぼうとしている。そのことは貴重です。
日本の国民は、「ありがとう」と彼に感謝しなけれぼならないはずです。そして彼が、何故俳優を志望し、それが駄目ならシナリオライターを日指したか。何通目かの手紙で、彼はこう言っています。
「僕は、税金を納める人聞になりたいんだ」と。自己保全と欲得第一の日本の政治屋に聞かせてやりたい一言です。         
1985年

0 件のコメント:

コメントを投稿