2011年5月24日火曜日

中村勝雄 からの手紙

 『もう一度抱きしめたい』

この度
待ち望んでいた
 かっちゃんの新刊が発売される事になり
無理と、ハッキリしない趣旨で、この本について
文章を書いてくれと頼み込みました(^_^;A
そして、すぐに手紙を頂きました。
今日は、その手紙を、そのままコピーして発表させていただきます。








題名『もう一度、抱きしめたい』
出版社『東京新聞』
内容『ダウン症のため1歳2ヶ月で亡くなった長男の物語』
発売日、5月25日 定価1300円


本になるまでのこと
6年前に亡くなった長男は、病院から出ることはなく、いつか本にして皆さんに知ってもらいたいと思っていました。
昨年7月、東京新聞・出版部長に原稿を渡しました。この方は、04年の夕刊に33回の連載の際、担当編集者でした。その後も年賀メール程度のやり取りを続けていたので、数年前から出版部長になったことは知っていました。
今回の作品は当初、小学館の編集者と進めていましたが、二年前お母様の介護のために退職されました。そして昨年の春、推敲(すいこう)に推敲を重ねた原稿は完成しました。
大手出版社を当たりましたが玉砕し、ダメ元で東京新聞・出版部に行きました。
ところがリーマンショック以降、出版のハードルが高くなったとのことで、あきらめかけていました。自分の中で、昨年に結果を出せず、力不足を痛感していました。それでも原稿完成後、すぐにドラマ用のシナリオを書き始めていました。
このシナリオも正月には完成し、94年から二年間契約社員をしていた日本テレビの知り合いに連絡、この方にも毎年、近況報告をしていました。またもダメ元で当たったところ、なんと編成局長さんになっていました。びっくりしました。
2月4日、10分だけなら会えるとのことで原稿とシナリオを持って行きました。すると三日後に部下だという企画部長から「修正しながらドラマ化を考えたい」と連絡がありました。なんと企画部長さんは横須賀出身でした。人とのつながりが大切だと痛感しています。

よろしくお願いします。

中村勝雄





2011年5月20日金曜日

『120センチの視線から』中村勝雄


第1回 「思えば遠くへ来たもんだ」 

二十歳のとき、「作家になろう」と思った。
正確には、シナリオライターになろうと。1980年代の、いわゆる「トレンディードラマ」のはしりの頃、ドラマの中で繰り広げられるストーリーは洗練されていて、ぜったいに自分には起こり得ないモノだった。だから強烈に、あこがれた。

それでも現実を分かっていなかったわけではない。重度の障害を持つぼくの将来は、障害の重さからして、少しの間は親達に介護されて生き永らえ、いずれ親も一人になり、自分も山奥の施設で早い余生を送る。そんなシナリオを養護学校の時は描いていた。描いていたというよりは、そうでしかない、とただ漠然と考えていたという方が正しいかもしれない。だから初めは、「作家」という職業に憧れながら、そんなすごい人間に自分はなれるはずがない、そう思っていた。

しかしその日から、23年が経ってしまった現在、押しも押されぬ、ではなく「押されたら倒れそう」な、いや車イスだから押してもらう「作家」にはなってしまった。だからまさに、人生は計算ができない代物だ。
かなタイプライターで書いた原稿から始まって、25歳のころからはワープロになり、現在はワープロが生産中止になったため、ぜったいに使わないつもりでいたパソコンなる「怪物」と日々むきあっている。編集者から、「中村さん、パソコンになったのなら原稿「てんぷ」にしてください。」と言われて、ぼくは本気で天ぷらのようにカラッとした、おいしい原稿を書け、そう遠回しに指摘されているのかと思っていた。(これはウソではない。)
 振り返って見ればぼくの人生、気が付いたらそうなっていた。思えば遠くへ来たもんだ、と実感する。ただ、がむしゃらにやってきた。いままで応募した原稿がどんなに落選続きでも、心の真ん中だけは落ち込ませないようにした。ほんの0.007%ぐらいは、もしかしたら「ひょうたんからこま」という可能性もあるかも知れない。そんな可能性にかけたのも、いま思えば本当に世間知らずの障害者だった気がする。
しかしきびしい現実も、ずっと永遠に続くはずがない。うまくいかないことの向こうには必ず、朝日のような成功が待っている。そう信じていた。これからの未来も、どんな勝利を手にするかは、すべて自分がどうなりたいのか、それを望む力強さがあればいい。


2011年5月19日木曜日

『120センチの視線から』中村勝雄

ある人々との出会い②  いつの日か、彼の歌が  … 【長井 賢】

その朝の事は一生忘れない。心の中の部品が一つなくなってしまったような、それまでに経験のない悲しみだった。親友を不慮の事故で無くした時の衝撃は、とても大きかった。
今から三年前の初夏。彼は同乗していた車の交通事故で逝った。享年29の若さだった。とにかく信じられなかった。
彼、長井 賢(さとし)と出会ったのは十年近く前の事だ。どう知り合ったのか説明すると複雑になるが、うちと長井のおばあちゃんとは長く近所付き合いをしていた。
 大学を卒業したばかりの長井は、ミュージシャンを目指して奮闘していた。
ぼくも作家になろうとしている事を知り、いつの間にか年の差を越えて真夜中まで話すようになった。
「かっちゃんの文章って、なんか心に入ってくるし読みやすいよね」
「でも、音楽の方がすごいって。この世界中の人々に聴いてもらえるじゃん。おれの書いたモノなんか、万が一出版されたって、たかがこの国の1億人しか読めないんだぜ」
「そうか」
「それに比べて長井がやってる音楽は、世界の誰でも感動される可能性はおおいにあるだろう。ジェラシー感じるよ」
 缶ビールを飲みながら、お互いの夢への情熱を語り合った。
何度か、長井のライブも聴きに行った。そして新曲ができると、ギターを手にして長井はぼくに披露してくれた。
「かっちゃん。おれの曲を聴いた人が、だれか一人でもいいから元気になってくれたら、おれは嬉しいんだ」
彼の訃報を聴いた瞬間、何度も言っていたその言葉が聞こえて来た。
昨年、長井が残したテープを元に、ご両親がCDアルバムを作られた。そこには、在りし日の長井の歌声がある。ぼくは元気がなくなると、そのCDを聴く。

どの曲も、長井らしいポップな歌声がつまっている。多くの人々に聴いてもらえない事が残念でならない。
だけど、ぼくは信じてる。
いつの日か、だれかの手でこの素敵な曲たちが、世界中の多くの人々に聴かれるようになり、みんなが元気になっていく日が来る事を。
2003/12/6 東京新聞より

2011年5月18日水曜日

中村勝雄■■■ 第8回『小学館ノンフィクション大賞』 ■■■ 審査委員の選評より

■■■ 第8回『小学館ノンフィクション大賞』 ■■■ 
審査委員の選評より

■猪瀬直樹(作家)
「パラダイスウォーカー」は、重度脳性マヒをわずらう中村氏のハワイ旅行と、
初恋に破れた話など半生が描かれている。
読後感が爽やかだった。
■野田正彰(評論家)
パラダイスウォーカーの可能性に期待
選考を重ねるにつれ、国際政治から細かい日常生活の襞まで、スポーツや冒険から神秘体験に到るまで、
多彩なテーマに挑戦する候補作品が並ぶようになった。
今年度も「小学館ノンフィクション大賞」の候補作らしい、多彩な五作品を受け取った。

五作品の内、私が比較的高く評価したのは、
中村勝雄さんの『パラダイスウォーカー』である。この本は、近年の障害をテーマとした本の流れのひとつとみなされてしまうかもしれないが、重度の脳性マヒをもった著者の外出中の排泄との闘い、非協力的な駅員への攻撃心などが書き込まれ、単に積極的な生き方だけを強調した著作ではない。さらに深く怒りや悲しみの過程を分析し、車イスでの旅人の内面を描ききっていれば、と残念に思う。書き直しを期待して、私は優秀作に推した。
■櫻井よしこ(ジャーナリスト)
中村氏の「パラダイスウォーカー」は、重度の脳性マヒを患う作者が自らの日常を綴ったもので、前向きで明るい物語に仕上がっている。だが逆に言えば、生々しさがあまり伝わってこない。望むほうが酷なのかもしれないが、もっと自らの内面をさらけ出す事が出来れば、伝わるものは違ったであろう。
■深沢祐介(作家)
「パラダイスウォーカー」は明るく、やはり障害者ならではの現実感があり、排泄にまつわる苦労など真に迫る。たぶん『五体不満足』の二番煎じと評されることもあろう。が、彼が正面から問題に立ち向かえば、新しい境地が開けるであろう。
■新聞の書評から
重度の障害のための食事も着替えも自由にならない著者が挑戦した、海外への一人旅。
「人生には前進する力だけがある」(サン=テグジュペリ)との気概に燃えるパラダイスウォーカー(楽園を往く者)の素晴らしき出会いが綴られている。
(小学館、1500円+税)
                         週刊ポスト(2001.8)より抜粋

2011年5月16日月曜日

木下恵介さんが中村勝雄の事を書いた特別寄稿

特別寄稿 随筆「N君頑張れ」
映画監督 木下 恵介
 N君から最初の手紙をもらったのは四年前、1981年の3月でした。開いてみて不思議な手紙だなと思いました。仮名タイプの手紙を見るのは初めてだったからです。便箋に4枚、仮名文字がぎっしりです。そして読みはじめて二度びっくりです。
「僕は俳優をこころざすはたちの脳性麻痺のものです」という言葉からはじまっているからです。脳性麻痺の青年が俳優になりたい。そんな奇想天外なことを思いつく人がいるでしょうか。封筒の中には車椅子に掛けた写真も入っていました。
N君は長崎の生まれで、生後10ケ月頃、両親がが普通の赤ン紡とは違うことに気づ゜き、「いろんな病院につれていったようです。病名がなかなかわからず、随分親たちに金銭的苦労をさせてしまったようです」と書いています。重度の脳性麻痺だったのです。それから後、名古屋、横須賀と両親は職場を変えなければならなかった.訓練施設や学校のためです。
20歳になり、私に手紙をくれたのは神奈川県の平塚養護学校寄宿舎からで、年齢約に半月には寄宿舎を出なければならない時でした。彼はこの養護学校に入る前の1年間、厚木市の山奥にある県立リハビリティションセンター更生ホームにいました。そしてこう書いています。
「それまでの僕は、自分ほ哀れんだり、呪ったりしていました。そんな僕がセンターで得たことは数限りありません。でもそれをほんの短い単語で表現するとしたら『自分だけが障害者じゃあない』という言葉しかありません」
彼は苦しみ自分と戦い、ひたむきに前進しようと生きてきたようです。意志も強いが頭も冴えているようです。その彼が俳優を志望するという突っ拍子もない希望を持ったことについて、次のように言っでいます。
「俳優になると決意したのは一年半ほど前のことでした。(中略〕自分のような役者がいてもよいのではないだろうか。障害者の役は障害のあるものが演じたほうが、よりいいものになるのではないか」
彼はある日、タレント募集の広告にひかれ、横須賀から五反田まで出掛けたそうです。そして断念しました。
その後だったと思います。突然、東京・麻布の私の家まで訪ねて来ました。勿論車椅子で。平塚の時の女の先生がつきそっていました.そして彼は、シナリオ作家になりたい、と言ったのです。それ以来彼が送ってきたシナリオは5、6篇あります。なかなかしっかりした書き方で感心しまレた。
しかし私は彼に言ったのです。「一番困難な道を選んだね」と。
去年の暮れ、彼はワープロを買いこんで頑張っています。そして最近送ってきたシナリオは、「戦争に結わりはない」という反戦ものです。脳性麻痺の彼が、平和のために叫ぼうとしている。そのことは貴重です。
日本の国民は、「ありがとう」と彼に感謝しなけれぼならないはずです。そして彼が、何故俳優を志望し、それが駄目ならシナリオライターを日指したか。何通目かの手紙で、彼はこう言っています。
「僕は、税金を納める人聞になりたいんだ」と。自己保全と欲得第一の日本の政治屋に聞かせてやりたい一言です。         
1985年

2011年5月15日日曜日

中村勝雄 旅立ち

  一人での海外は二度目でも、ぎりぎりまで中止を考えていた。成田空港内のガラスの塔を見上げても、やはり出発はやめようか、と思っていた。初めての三泊五日の旅は、震えるほど不安でいっぱいだった。それでも前へ、自分のために踏み出すことにした。
ーなんとかなるさ。
全日空の地上職員に車イスを押されて関税を通り、かなり長い距離を進むと飛行機が見えた。もう外はまっ暗で、大きな機体の全部は見えなかった。
「それでは、こちらで搭乗時間までお待ち下さい。また参りますので」
「はい、ありがとうございました」
今までになくドキドキしていた。自分で食事すら摂れないのに、なぜ遠くハワイまで旅するのか?いろんな考えが入り混じっての計画だったが、その根っこの所では、よく自分でも判らなかった。それでも、もう後戻りは出来ない。
  搭乗開始の時間を計算してトイレを済ませて戻ると、ほかの客よりも先に機内へと誘導された。男性の地上職員が二人がかりで座席に移してくれた。
「ありがとうございました」
「お気をつけて」
すると客室乗務員の一人が、横にしゃがみ込んだ。
「何かお手伝いすることがありましたら遠慮なく、おっしゃって下さい。出来るかぎりのお手伝いをさせていただきますので」
「いつも御迷惑かけてすみません」
「でも、すごいですね。何だか尊敬します」
「はぁ」
なにを尊敬されているのか判らなかったが、ぼくには確かに普通とは違う強い雰囲気があるのだろう。そのスッチーの胸には「棚橋  T.TANAHASHI」とあった。
とりあえずシートベルトをきつく締めてもらった。そして飛行機は、夜の成田空港を離陸した。
ーおれって全日空では有名人なのか?
確かに香港の時も今回も、さんざん問い合わせもし車イスであることの念押しもした。それにしても、たかが車イスの客に過ぎない。そして機内食が配られると香港の時と同じく、周囲の男性客たちの嫉妬の眼差しを浴びつつ、談笑しながら棚橋さんの介助で全部を食べた。嫌いな野菜も残すことなどしなかった。その上、名刺までもらった。
ーどうして、こんなにラッキーなんだよ?
  今までに経験のない長い飛行時間だった。折りたたんでいる足はしびれを通り越し感覚がなくなっていた。何時の間にか眠り、ふと目が覚めた時。
ーそっか。
  ぼんやりと何かが判ったような気がした。うまく答えはつかめないが、何となく今まで解けなかった謎の正体が、おぼろげに見えていた。

「パラダイスウォーカー」
小学館出版  より

2011年5月14日土曜日

中村勝雄 {てつの懺悔}ー五行歌ー

蔑む目
心の歪み
気付かれぬよう
作り笑い
醜く歪む

その日は、疲れていた
でも、どうしても行かなければならない用事があった
重い足を義務的に動かし、駅に向う
せめて、電車の中で寝たい、
知ってる人に会いたくない、少しでも一人ユックリする時間が欲しい
情けない程、自分勝手で傲慢な人間に成り果てていた

元来
私は傲慢で人の事を思いやる
いや、口ではきれいごとをいっていたが、
他人の事に係る事が面倒で、嫌でしょうがなかった
ましてや、障害を持った方のお手伝い、ボランティア
到底、考えられない人間だった。

そんな私が、かっちゃんと出会い
友達になった、
今考えると、かっちゃんに、受け入れて貰ったのだろう。

この話しは
そんな私が
まだかっちゃんと出会って間もない頃の事です

情けない程、自分勝手で傲慢に成り果てた私は
駅でかっちゃんに、出会ってしまったのです。
情けない私は、理性と言う仮面を着けたまま
かっちゃんを乗せた、車椅子を押して一緒に電車に乗り込んだ

嫌だった
奇異の目で見られている様で
話しかけて欲しくなかった
知り合いと思われるのが
嫌だった
かっちゃんは
そんな、私に笑顔で飴をくれた

最初に記した五行歌は
この時の気持ちを歌ったものです。

この後、かっちゃんと別れ
電車に残された私は、念願が叶い
一人座席に座る事が出来、貰った飴を口に入れた.

この飴の味
良くわかりません
なんか胸が詰まります
甘くて美味しいよ
君の笑顔でほろ苦い

きっと、私はかっちゃんとの出会いにより
人間らしく、成長出来たのです。



2011年5月12日木曜日

中村勝雄② 僕はうまれつきの失敗学者? [マイナスもかければプラスに]



ぼくは重度の障害者だが、もしかすると生まれた時から失敗学者だったのかも知れない。すべての事が、何もかもうまくいかない現実からはじまっている。
小さな子どもの時から、簡単なおもちゃすら思いどおりには遊べなかった。
畑村氏は「成長過程で必ずしなければならない失敗は、必要な良い失敗」だと述べているが、障害児として生を受け、障害者として生活している事、それば失敗=うまくいかない現実との格闘ばかりだった。失敗学と障害者の生き方を比較するのは多少、次元が違うとしても、足元の現実をしっかり踏み固めて前進する力に変える事は、畑村氏の説と重ねると、新しい生き方が見えてくる。
今回、年末までの連載をさせていただく事になり、ぼくは『120㌢の視線から』として、いろんな視点で車イスに乗っていて感じる風景や出来事を記したいが、ふと考えてみると単に障害者といっても、もしかすると健康な方たちより、はるかに多様な生き方をしているかも知れない。ぼく自身も、自分について何をどこまで知っているのか厳密にはわからないのが正直なところだ。
ましてや、ほかの障害者の方たちの苦労や大変さ、そして喜びや楽しみなど推し量る事は、とうてい出来ない。
したがってこの連載も、障害者としての意見や考え方ではなく、中村勝雄から見えている風景や、今まで経験した出来事として読んでいただければ幸いだ。
以前、友人から言われた事がある。
「本当のところが聞きたいんだけど。かっちゃんは、そんなに障害が重いのに前向きっていうか、どうして明るく笑って何にでも積極的なの?」
「いやぁ、そうなっちゃうんだよね」
今なら畑村氏の失敗学を話して説明できるだろう。マイナスもマイナスをかければ不思議な事にプラスとなる。そして、ある哲学者の「人生は、どこまでも強気でいけ」という言葉が僕の心の、ど真ん中に核としてあるからだ。

2011年5月11日水曜日

中村勝雄の苦悩

かっちゃんは、もがき苦しんでいた
私に言わせれば、その当時のかっちゃんでさえ、奇跡であった。
沢山のひとびとに、希望と、勇気をあたえていた。
でも、かっちゃんは、周りの人が思うより、高みを目指し、私にとっての奇跡を起こす準備をしていた。

~パラダイスウォーカーより
半年ほど前だった。あと二年たらずで四十歳になることをおもうと、焦りとは違うが不安定な気持ちになった。かなり重度の障害者に生まれたものの、いい時代になっていく過程だったのか、そんなに目立った苦労もすることなく、さほどの描写すらせず、気がつくとそんな歳になっていた。昔の偉い人の言葉を借りれば「惑わず」だというが、ぼくの心には、それでもまだ薄く蒙古斑が残っている感じだった。
自分の幼さが気になった。
二十代の前半からシナリオライターを目指して悪戦苦闘もしていたが、まったくプロになる見込みもなく、原稿を書くペースは落ちるばかりだった。いや書けなくなっていた。
若いころの、無我夢中な創作意欲は失せ、きびしい世界であることを言い訳にして、うまくいかない現実を障害のせいにさえしていた。自分は重度の障害者だから仕方ないと。
ーお前、どうしたんだよ。
心の片すみから、自分にむかって苛立ちが飛んで来た。
前へ。それが自分だったはずだ。そんなお前は、どこへ行ったんだ。
敬愛する桂冠詩人・山本伸一氏の詩、
「人生は
   果てしない
   旅の始まりであり
   終局のない
   不可思議なたびを
   せねばならない」
不可思議な旅。その一行に驚きあんしんした。こんな自分だけが障害者だからといって例外なのではなく、ぼくも多くの旅人の一人に過ぎなかったのだ。


この時の苦悩が有ったから
物書きとしての、勲章を手に入れて、新しい舞台を切り開けたのだよね。

中村勝雄の経歴

@中村 勝雄@
なかむらかつお


*1960年12月 長崎に生まれる
* 81年03月 平塚養護学校高等部・卒業
* 81年12月 木下恵介監督に師事
* 85年02月 ATG映画脚本賞佳作・受賞
* 94年07月 日本テレビ編成局(2年間)契約社員
* 95年10月 小説集「涼子へ」を自費出版する
* 99年08月 新装版「涼子Hello,my love」がプラルトより出版される
*2001年08月 第8回小学館 ノンフィクション大賞優秀賞受賞

*現在*
シナリオライター、バリアフリー・アドバイザーとして活躍中。





受賞の言葉

「パラダイスウォーカー」
{楽じゃないから楽しいんだ!}
-障害だって、個性と思えば何でもできる!-

第8回小学館ノンフィクション大賞優秀作品
小学館より、絶賛発売中!!定価\1500-


※希望、それは生きること―。
旅はパラダイスだ。
だが身体の障害の重さの説明に、いつも困る。ぼくは車イスで、食事はおろか着替えすら自分では何ひとつ出来ない折り紙付きの、それこそ間違いなく重度の障害者なのに、香港とハワイへの一人旅をした。生まれて初めて、意外な自分の正体を知る旅になった。
(中略)養護学校の高校時代、まだ車イスの動かし方が未熟で、ちょっとした悪路でも、よく倒れてしまい周りが大騒ぎしていた。(中略)不自由な右足一本で、かろうじて車イスを進めるのだから効率が悪い。そして当然…(パラダイスウォーカーより抜粋

中村勝雄



中村勝雄
以降“かっちゃん"と、いつも通りの呼び名で書かせていただきます。

先ず初めに
かっちゃんは、生まれながらに脳性麻痺という、重度の障害と闘う戦士として、この世に出で立ちました。
かっちゃんの言葉をかりると、
「身体の障害の重さの説明に,いつも困る。ぼくは車イスで、食事はおろか着替えすら自分では何ひとつ出来ない折り紙付きの、それこそ間違いなく重度の障害者…」-小学館出版 パラダイス・ウォーカーより

私の目からも、THE障害者です。飽くまでも外見、と、言いますか身体的機能はですかね( ̄^ ̄)ゞ

そんな、かっちゃんがある日私に、夢を話してくれました。
「僕、シナリオライターになる。」
( ̄◇ ̄;)なんです~と⁇
だって皆さん、聞いて下さい。
かっちゃんは、字書けないのですよ。
正確には、書けるのですが、両腕は後ろに曲がったままで、ほんの少しだけ自分の意志で動く手首と、指を駆使して書くものですから、初めての方には解読不能と言って差し支えないのですから…
でも、かっちゃんはちゃんと考え、努力してました。
普及しはじめていた、ワープロを購入し、身体を斜めにワープロに向かい、私には信じられない格好で文字を操りだしたのです。
チョット話しは逸れますが、かっちゃんと話し会った思い出で、「ぼくは、この時代に生まれなかったら、中村勝雄は、世に存在しなかった。」と、しみじみ語っていました。
ドイツナチ時代、障害を持った子供達が、政府に幽閉された話しなど過去の悲惨な迫害を語った時だったけど、今、ワープロに向かう、君を見て、まさに今、この世に出で立ちたる使命があるのだと、思う。